昭和49年9月26日 合楽示現活動一泊研修会親先生御講話(第二日目)②



 必ず、方角日柄ということではなくて、ね、私共が見当違いの考え方をしておるということです。もうお互いが感じるような話ですもんね、私のお話は。そればってんそれば、本当にそこへんが信じて聞いて下さるとこら、大変ないうならめぐりば作らんですむ、これからは、めぐりを作らんですむ生き方になることですから。
 いうならば、天地に対する例えば、日々の、今日は、良い日悪い日といったような、ことで、例えば、良い日もなければ悪い日もない、ね、ありがたい日ばっかりなのだけれども、お恵みの日ばっかりなのだけれども、それに対して良いの悪いのというようなことはもう天地に対する大変なご無礼。しかもそれが前々のめぐり、そういうご無礼がつもりつもって、めぐりをつむ。めぐりということは、すべてのみ教えの中でここだけしかないようですね。
 めぐりというのはね、私はそういう風に思うです。だからここは、日柄方位をいわんですむということだけじゃないのです。全てのことに検討ちがい、例えて申します、まあ今朝の御理解から申しますとです、神様が氏子可愛いと思うてくださった、いうなら問題をです、私共が様々に、これほど信心するのにどうしてこげな風なことが起きってくるじゃろうかというような見当違いの思い方をすることが、ご無礼になるのです。だから、そのことをです、神様が私にくださろう、私をこれによって力をくださる、これによってお徳をくださろうとしておるという、頂き方こそが、本当の頂き方です。だからおかげ頂くはずです、ね。

 日柄方角ばかり見てということはです、ね、いわゆる見当違いということなのですから、日々の生活の中に私共がどの位見当違いのことを言うたり思うたり、行うたりして、いうならば、めぐりのあるのにまたも、めぐりを重ねていっておるようなことはないだろうかと、まあ反省をしなければいけません。ね。
 私はここのところが一番大事だと思うんですけれどね、みなさん。どうでしょうか。この話はみなさんも聞いたことないでしょう、ここんところ。ね、それで次のところの「この度、生神金光大神を差し向け願う氏子におかげを授け、理解申して聞かせ」と、ね、(?)のところが、あの今の、金光教では、少しこう、か、変わってきたというか、願う氏子におかげをさずけられないような、こう無気力な先生やら教会が多くなったような気がするんですけどどうでしょうか。ああでもこう、分かんなさい、分かりゃあおかげ頂けるち絶対すらごつですありゃあ、分からんでんおかげ頂くごとなっとるとじゃけん。そりゃその上わかるならなお有り難い。ですからこれは私はいつも実感することですけれども、んー、先生の問題で、お願いにくる時に、人間関係でおかげ頂いた話をする。病気の、例えば胃なら胃が悪い、そんなら食物の訓をよく教えてやって、頂き方をすりゃあ、いわゆるなるほど、そうでもあろうけれども、私は御結界でその時までしっかり実感しておること、また今、私が一番有り難いと思うておることを伝えるです。ね、金銭のにも病気のことにも関係なかっても、おかげ頂くことだけは間違いないです。いうなら、私が真からありがたいと思うておることを、そのことがおかげになるのです。

 ね、話を聞いて助かるということはね、ここはもちろん、話の聞き方によって、今まで、いうなら天地の道理もご恩徳もしらなかった。それこそ初めて聞いた。ね、そして天地のご恩徳に対して、天地の、いうならば、あーご恩徳を分からせてもろうて、道理におうた生き方にならせて頂こうということがです、なるほど金光様の信心の、いうならば信心ぶりと言う事にならなければなりませんのですけれども、ね、願う氏子におかげを授けということはそういうことと関係ないです。ね、これはみなさんもひとつ体験してごらんなさい。みなさん御結界奉仕なさっておられる時に、一番真剣に信心なら信心のことで悩んでおること、真剣に悩んでおること、まあ本当にあり難いと例えば思うこと、そのことを伝えてごらんなさい、必ず感動します。受けるものが。金光様の先生ちゃそげなことつも分かっちゃなかじゃろかとはけして思わんです。素晴らしいなあ、尊いなあと。その、思うその心がね、次のおかげを呼んでるんです。今の合楽の場合なんかは、あー私のー合楽では、もう御理解1本できましたからね。もう昔は朝からもう夕方まで、立つ暇がないくらいに、ずっとお話のでっぱなしでした。ですからお参りしてきたものは、もうそこに(お初穂?)がかけとりますが、もう25年分からもうこっちまでね。もうそれこそもう朝から晩まで、もうあ、そのいどおし。かえろうと思うてもすぐお話がでるけんで、また残る。ね、してもう今夜はとまってよかじゃんのちごたる風で、これからまた朝の御祈念を頂いて帰って(   )時代でしたからもう、そげんたくさんな人間は参ってきとらんばってん、いつもそーな参りよるごとあったです。畳、そうですね20畳位のところにもういつもいっぱいでした。いつもお話頂き続けて、夜中にたつ人があっても、後もうすぐ(?)けれどもそれはね、話を聞いて助かる。分かったから助かるの、ということもこれも一つです。その証拠にはですね、当時、その方は亡くなりましたけれども、もう棒にも箸にもかからない、中村さんのとこの隣りの、方から嫁さんがきとる、そんなことで、合楽におかげを頂いて、もうあの目の病気で、あのバスのあのステップに足があげられないほどしの状態でした。もう合楽に、あの当時の椛目に来てある人たちなんかは、もうそれこそ肩で息をするちいうのね、こうやって(歩き難い?)ごたる。ほんなこつ、それでもまあ実意丁寧な人だから、その人はその、その病気のために全然耳が聞こえない人でした。それでも私がこうやってお話しをしておりますと、一生懸命こう私を見つめて、話しを頂いておるんですよ。そして涙ばぽろぽろ流しよるです。(?)親先生の話しが分かるねちいうちから、分からんち。分からんばってんね、先生が一生懸命話しなさるとば、やっぱ見よるとです、聞こえよらんでっちゃ。ね、ばってんありがとなってくるというのです。ね、それでおかげ頂く。ね、ですから分かるけんじゃないでしょうが。私が本当にありがとうしてありがとうしてこたえんようにして、お話しをしておる様子に、いわば、見たり触れたりしただけで人はどんどん助かってました。ね、この辺のところの見解をです、少し変えなければいけないなと思うです。そして、いうならばおかげを受けて、ね、例えば最近私が神様から頂きますことの中に、疑うてきても、(すがってくれば?)奇跡を見せるとおっしゃる。何回疑うてきとっても。今まで私はですね、信じなさい、信じなさいということばっかりいうて、私を信じなさいと。ところがね、そげなこつは問題じゃない、ね、どげん疑うてきても、そればってん苦しいから頼みますというてすがってくれば、奇跡をみせる、本当にその、奇跡が現われる。ね、いうならばです、病人なら病人がです、例えば、んー二、三日前でした。(  先生?)が、様態がわからんごつなった。おかげで無事に、出産のおかげを頂いたまではよかったけれども一週間位してからでした、どうもそうに元気ない。それも、(?が妹と)、それからおばあちゃんと、それからご主人と。ところがそのご主人ちいうのがもうほんっとに信心が嫌いなんです。けれどもやっぱり自分の子供がかわいいもんですからお願いにきた、ね。私はもう遅かったですから、茶の間におった。それからあの、茶の間に、あの(?さん)の、あの絵の書いたカレンダーがかけてあった。あの中に、ん「ー月うさぎ、月が産んだか白うさぎ」という、(?)の句があります。「月うさぎ、月が産んだか白うさぎ。」それで私が、それを、まあ夫婦に申しました。あんたどんが自分でつくったと思うとるばってん、あんたどんがつくったっちゃなかばい、神様がつくってくれた、めぐんでくださったんですから、だから、創り主の神様に、お願いをしたが一番いいよと。それを聞いたならその、親父になるとが信じたとは思われません。あげなんこと先生がいいよるががほんなこっちゃろうかちいうちから、思うたぐらいのこっちゃないだろうかと思うです。とにかく私は赤ちゃんちゃあ産まれてから段々太なるかと思うたら、段々こもなったです。一週間、ほんなこつ。はい。ね、そしたらその、そういうお取次をさせて頂いたその明くる日からです、ね、おかげで峠はこした、というお届けがありました。ちょうど、またおかげ頂いておるとたん、少しおかげを頂いてきたお届けがございました。ね、ですから神様も分からない、信心も知らないけれども、親として子供の病気を目の当たりに見て、じっとしておられんもんじゃから、日頃はどうやこうや言いよるけれども、ちいうてから。そして、先生お願いします、心では疑うとりますばってんか、(言わじゃったばってんかですね。)私にはようそれが分かる。
 ね、まあ絶対ですみなさん、どういう例えば、もう今息を引き取るごたる病人がでたっちゃですね、もう断言しなさらなんいかんですよ。お願いをするからには必ず印がみえるということ。それが奇跡なんです。ね。だから、その、ほう、これが神様の働きだろうかと、分かったなら、さあそれから一つ本気で打ち込んでこい、本気で話しも頂けと、いうふうに私は申します。だからこの奇跡だけはです、これはもう誰が座っとったっちゃその働きはあるです。うん、またあると信じなければうそです。ね、それが見えなければ、次に、いうならば、信者は本気になってついちゃこんです。ほう、たった1日でもいいけんお願いしなきゃで、こんくらいじゃいけん、十日目ならまだおかげ頂こうと思うちから、ね、そしてから段々、いうならば、お道のとりこになって良い信者になってくる、誰でもそうです。息子にそこに(?)あのおばあちゃんですけれども、今、婦人総代してます。ほんーなもう、それこそ息子の大学に行くことばっかりで、一生懸命やってきた。それで毎日お参りを何日もやってきた。ところが3回もできそこなった。そん時はもう、もう本当にあれがもし一回で、大学にやっとったら、恐らく私はあれっきり信心はやめとったでしょうと。けれどもさんべんもです、しかも、高校の先生が太鼓判をおして、(?)ちいいござったのが、3回も続けて落ちた。ね、ようやく4回目におかげを頂くように、頂きました。ん、ところがその頃は、もう誰がなんというても辞められないちいうごつなった。ん。

 今朝からもお届けがありました。昨日は親先生、弟のところに、示現活動にいった、弟さんがちょっと具合が悪い。ところがその、嫁さんちいう人が、お2人とも大学に出てる。後でおばあちゃんが、来てから嫁さんになる、その、家のここの総代さん(?)おばあちゃん、参って(?)。かあもう家の嫁ごばっかりはああたもう、隣りでんなんでんもう、「ひでお」「ひでお」ちいうてから呼び捨てする。「うちのひでおが、うちのひでお」が、とても、これはこれはもう、これだけでんこれは家のよめごにはいかんけんで、いっちょもう離縁せないかんばいちいうてその、問題になった。ところがあれは今の人はいいますね、あの、たくさん学問した人なんかは特に言いましょうが。主人のことを「うちのひでおが」ち。あれは愛称でしょうね、いうなら。ね、いうならその、やっぱその時分も何十年前の話しですからね、やっぱ、手紙とかその頃は、「うちのひでおが、まあ無事であります」とかいろいろ書いてくる。ならそれだけでその、ちいうぐらいに頭の良い嫁さんですから、もう絶対いうなら、姉さんだったらその、熊谷さんちいう方の話しは聞こうともしない。言って信心の話しをするとね、もうつーっと立つげな。それでその弟さんが時々参ってきなさる。はあやっぱ大学に出ちゃるだけ、理解力もあるから、とにかくその、その、合楽の先生ちゃだいたい無学の人げなけんで、無学の人の話しを聞いちからちいうちから、その軽蔑しとる。それで私がその、お話しが下手ですけんね、こげなふうでその、まあ筑後弁丸だしで話しますもんじゃけん、ね、なんかその、(気に入られない?)んですね。ところが、そのひでおさんというその弟さんは、とてもとても無学であげなん話しはできんよ、お前がいっぺんもお話しを聞いたことがなかけんばってんというて、昨日言われたという話しでした。昨日はもう行く時からちごとった。「親先生今日は、ほんっとに一つ示現活動にやらせて頂きます。今までは私が行きよりましたけれども、今日ばっかりは神様が先頭に立ってくださいという願いのもとに、もうそういう気がやっぱした。そしたらその日は、みんな家族中のものがおって、お話しをしだしたら、もうとにかく、私が行って話しをしたらつーっと立ち上がりよったここ二十何年間それできておった、その弟嫁さんがです、座りこんでお話しを聞くようになった。そしたらその素晴らしかですのと、とにかく(これば? )お姉さん、今夜はどうでも泊まっていってくださいという。そんなら、泊まってほんならお話しだけでも、昨夜11時ごろまで話しよった。そしてその、おかげの泉ば一冊持ってたけん持っていってから、ちょっとの間にすぐ読んで、もうなんという素晴らしいことが、どげなこつ書いとるかしらんばってんが、ほんなこつ。あの、あん熊谷さんが(?)そしたらこげな素晴らしいお話はなるほど、お釈迦様もキリスト様もしやしんなさるめちいわしゃった。いや、ああた方は笑いよるけれども、教祖金光大神のみ教えはそうです。もう釈迦もキリストも説きえてないところば説いちゃるです。本当です。ね、それを私がまた、噛んでふくめるように説くのですから、お釈迦様もキリスト様もこげなことはいいやきんなさるめちいうようなことば説いちゃる。

 ね、例えば、あのー、神ありての氏子、裃たつようにいたすなんていうことはもう、キリストやら釈迦やら説いてないことですね。もっと他にもたくさんあります。ね、そうして、なら今朝から、ね、親子、婿のお嫁さんたちまでも一緒に、いうならあの、あーまあ、(?)その、妹、弟嫁さんからは、(あなたは?参ってくださいち)。そして今朝は、あんまりお参りが多かったもんじゃけんびっくりしとる。(?)と思っとるわけですね。(?)あそこんにきは。ね、おそらく合楽のとりこになることでしょう。しかしやっぱし二十年近くかかっとる。ね。そういうようなね、例えばおかげというものがね、この分からせたとか分かったとかというようなことでじゃないです。もう一気に熟するというですかね、神様のおかげをくださろとする働きが、始まる。いうなら神のご発動が始まる、そこで、発動をね、促す働きを、常日頃にしとかなければいけないということなんです。動かしよらんもんいっちょん。ね、私が、二十五年間、いうならば御用せなん助からんとん、または、あーお導きをすることが神様がお喜びなださるけんお導きしなさいとも私は二十五年間もうこれだけは言うてこなかったです。実際はいおうごたる、ね。これはおかげ(?)ちいうてから、信者がどんどん増えたがいいです。けれども神様は、こればっかしは、あの、いうことを許されませんでした。お導きをするとか、御用せにゃ助からんとか、私たちはそればっかりを習うてきたっです。いうなら。ね、もう御用すりゃ助かると。または、お導きをすることが神様が一番喜んだくださることだと、いうてきたんです。そこで私は二十五年間思うてきたことは、もう最近はあきらめるというが、今度はもう合楽のご流儀とまで思うようになりました。ここに甘いものがあるならばです、この甘いものに、どういう遠いところからでもこの、甘い物を好きなものは甘いものに(?)てくる。いうならば、ね、蜂やら蟻やらが、甘いものにたかるように、問題はいよいよこちらがあもならないけんという気になりました。そこでもういよいよあもなるけいこを本気でしたわけです。それをここでは馬鹿と阿呆といいよります。ね。これは福岡の初代が四神様からお受けになられたみ教えです。馬鹿と阿呆で道を開けと。

 先日から私、お知らせを頂いた。あれは、アメリカの洗剤で、なんとかちいうたかな?あ?ジェイアンドチア―、ね、なんかベロ噛むごたるふうな。覚えきらん。ジェイアンドチアー。ね、もうそれこそ、ぬるま湯で、水でも、そんなこう使いわけないかんね、普通の洗剤は。ところがそ、なんとかチア―はですね、もうそれだけでよいちいうのです。そのお知らせを頂いたんです。そして頂くことがです、あの蚊取り線香を頂いた。しかも火のついとる。ほんにゆうべああたがたはそうにゃ蚊に責められたごたるですね。もう今朝からもう蚊が多くてからどんこんねられじゃったちからいいよった。ほんと気の毒なことじゃったと思うてから、私があんまりたくさんあるもんじゃけん、あの、こげな大きな箱にいっぱいお供えしとったですよ、ほんと。だから、あの(その部屋部屋? )においてあるはずばってん、みなさんはみなさらなかったですか。そいでおかげで、まあ(?)修行ができたというて喜びのその…。

 ね、あれに火がついてしまえばね、蚊はもう落ちるわけです。言うならわずらわしい物が落ちてしまうわけです。ね、みなさんのところはどうでしょか、おいてあったっちゃ、ちいとこれがおかしかったらああた、あれは蚊取り線香じゃからちいうでしょう。私は金光様の先生はね、その蚊取り線香になるけいこですよ。ん、あんまりだから、その教学なんかで利口もんの先生になると人が助からんごとなる。ね、ちーたうちん先生は抜けとんなさらんじゃろうかっちいうぐらいでちょうどよか。問題は、けれどもそれに、ね、熱情というかね、いわば火がともっておらなければいけない。ね、燃えらなきゃいけない。なるほどほんなら、それこそ何とかチアーじゃなかけれども、これ1本、ひれ一つでおかげ受けられるという、もう本気でバカと阿呆になっていくならばです、もう第一ね、わずらしいちいうのがなくなってくるです。ね、足りないとかね、ならなら金が足りないとか病気とか、ね、人間関係のわずらわしい問題なんかはだんだんなくなってくるです。そして、自分の周囲は、もうあの人もよか人この人もよか人、ほんとに神様んごたる人ばっかりになってくるです。その(?)先生が言ってました。ね、私の周囲はもうほんっとよか人ばかり。いかに(?)先生が、素晴らしい人かということが分かる。ね、もう私どんの、周囲にはね、それこそもうあの人ばっかりは鬼のごたるがちいうそのおる時にはね、やはりこちらに鬼がすんでおる時ですよ。ん、だからね、本当の極楽というのは自分の周囲があの人もこの人も仏様観音様に見えるごとね、なった時が極楽です。もちろんこれは人だけではありません。条件、いわゆるまあ、幸福の条件のすべてがたろうてくる。ね、それが、いうならこの、馬鹿と阿呆一つでおかげを頂いていくことができるのです。

 だからこれなんかはだからどんな無学でもできるわけです。ね、本当に馬鹿になろう、もう私が馬鹿になっときゃあよかけんち涙ぽろぽろ流しよったっちゃほんなもんじゃない。あーあげなんとは必ずノイローゼになってですね、ならんにしても、年をとるにしたがってです、それこそ、もう頑固じじいになったり鬼婆んごつなったりする。かあ私どんがわけー時はこげんじゃったばいちいうごたる風でね、人を責めることの材料に使う、自分が辛抱してきたことを。ね、馬鹿と阿呆というのはもうそれがね、もうおかげでということになってくるんです。どんなにそれが馬鹿にされても、ね、それこそ泥棒じゃ、乞食じゃといわれてもです、ね、神様を信じておれば、ね、それに対して、ならあかずら弁慶になっていいわけすることも立ち向かうこともいらない。神様がちゃんと顔をたててくださる。ね、その代わりにしっかり信心の帯をせよということは、いわゆる蚊取り線香に火をつけよということなんです。

 わずらわしいものは、これ一つそれこそ馬鹿のひとつ覚えじゃないけども、覚えただけで、自分も助かり人も助かるほどしの徳が受けられると思うですね。そういう話をです、やはり聞かなければ分からない。そういう話をです、私は信者にしてあげなきゃいけないと思う。これならもう無学の者でも、はあほんと今日から本気で馬鹿と阿呆になるぞと、もうなった後の気持ちよいことね、言わんですんだ時、そん時ははがいい、そん時は苦しい、けれども教えを教えを守った後は、その言わんでよかったじゃなくて、教えを守ったことをね、神様がこよなく喜んでくださるその喜びがね、こちらへうつってくるんだと思うです。ね、そして、馬鹿になることが阿呆になることが、楽しゅうなってくる。誰か馬鹿にしてくれりゃあよかがちいうぐらいなってくる。いやほんとそうなるですよ。ね、それと、七難八苦を与えたまえちいうごたることをを祈ったぐらいにある位じゃから。ね、そこまですることはいらん、金光様の信心は。それこそ自然、もう本当に成り行きの中にね、もうそれこそこたえんような、まあ修行がね、えーよってくるんです。そこんところを頂いていけばよい。まあ御理解三節を、只今私が、私が一番大切と思うところを聞いて頂いた、しかも大切なことを本当に大切なことと分かったら、ね、もうこれから以上、めぐりを積むことはないというおかげ。ね、が頂かれる、大変なみ教えだと思いますね。

 御理解十八節に、ここ、この御理解ほど、なんかね、私共に本当信心のけいこをさせて頂こうとする者の、希望というか、そういうものが、あの、うれしゅうなってくる、希望が、その湧くような御理解ですね。みんなも生神様になれるというのだから。ね、この方のことを神神といが、ここに参っておる人々がみな神の氏子じゃ。生神とはここに神が生まれるということで、此の方がおかげの受け始めである、みんなもそのとおりにおかげが受けられると。だからやっぱり、総生神を願うことだという風に表現された方があるということで、確かにそうだと。そげん生神様なんてんならんでよかちいうことはいなです。ね、そのためには一つ、私はあの、そのいきーいやーその時分に思うんですけども、二十四、五年前の話ですけども、もう死んだ気でというか、ね、そういう修行をした時代がございました。ですから、その不平不子をいわんわけですね。死んだ気ですから。ある時、宅祭りに参りました。そしたら、ちょっともう親先生が大好物のうどんをつくっておるとおっしゃった。ほらもう、具入りのこうした、そのおいしそうなうどんがどけとりました。もう言ったらすぐ出されました。それからもう、喜びいさんでからこうやって、頂こうとしたらどっこいすめが入っとらんもん。うどんと具だけ。あれはちょいと食べにっかですよ。こうのどにひっかかるごたる。そしてもうていげ頂いてしもうたところに、ありゃーち声がしよるですもん。もうおめでたばいのーち思うたばってんそんときゃおそか。ね、すめをかけて出すとば忘れとった。ね、まあそういう笑い話もだから生まれてくるです。死んだ気で、もうお位牌さんがもうこれはすめが入っとらんばいちいわしゃるはずはなかですもんね。ですからもう死んだ気ですから、すめがはいっらんうどんでん黙って頂きますちいう、まあ頂くというような修行です。しかし私は、ああいう修行は本当にあの素晴らしいと今思いますね。第一不平不足を言わんですむですもん。ね、
 そういうね、私は、この生神になる道にはね、このくらいな修行はさせてもらわなんいかんですよ、生神様じゃけん。ね、生神様は仏様よりまいっちょうえんたなじゃけん。ですからその、生神への道という、ね。

 今ここで、あの大黒様が、一つのそのちょっとしたふーむ、ふーむ、やがて90体ですかね、あの、出してしまう。またあとは10体頼んだそうです。百何本になるわけです。まだ増えましょう。本当にあの、この大黒様を奉祭することによってその、やっぱおかげ頂きなさるとですよね、今そこに参ってきとる、(   )の熊谷さんのお宅なんかもうそうでした。ほんとにあそこんとはもう、それこそ鼻のつぶれたごたる大黒様、こんくらいぐらいの泥でつくったごたる大黒さん。それがもう百何十年も前から蔵の中にはいっとったちいうとじゃけん。こげんとでよかでっしょかち、そら御霊たちのあの、その何とはなしに素朴でね、鼻はちった低かばってん、中々よか大黒様。こーらよかですね、ほんにこれは私がもらおうごたるちいうちから言うたこつでしたけれども。それから、あー家で奉祭されるようになりました。家では、お神様、改式してありますから、霊神様と、そこに、こう私のあの写真がおいてある。その写真にいつもこう、座布団がひいてあって、いつもこのお茶がこうやってお供えしてあっていつ参ってもそれがしてある。おかげ頂く人は違いますよ。私くらいなもんでもやっぱり生神様のようにあつこうておられるわけです。
 ね、して今度は大黒様を二人まつんなさったけんで、おおごつ、上も下もせなん。ほいで、今度は下の方には、この、私がこの水をたくさんいただくから、氷を入れて、氷水をお供えして拝むといわれます。あくる日二百万がころっと入った。
 この頃から900万入った。もうそれこそこりゃまあほんとうに、そのーなんちいうんでしょうかね、もう二十何年間、もう本当に親先生まかせの信心生活をなさり、確かに、あの昔の金持ちさんです、ね。ですから田地田畑を取られてともうて、少しばっかり残っとった小作がはずさんというわけです。ここのご造営の時分にもう、いくらでんよかけん売りたい。ところがもう、その小作が権利金をがばっととりこっちにはほんのわーずかしか手にはいらん。それでお伺いさせて頂いたら、もう少し時節をまったがよかろう、ほうからかしとけ、ほうからかしとけじゃった。そしたらね、その、こだくさんの息子さんがね、できそこのうた。そしてね、600万というその借金をつくったわけです。それで今度は熊谷さんのところに、お願いにきたわけなんです。ね、あれを売ってもよいでしょうかと。私は600万もらえば、二反あまり、(     )それから御神意をお伺いされます。たら売ってもよかろうということだった。そしたら、 農協からからそれを買いにいった。それがその、1700万。ね、だから、900万こちらに入った。もう本当にあの転がりこんできたようなおかげ。もうそげなんもう、その小作に渡した二反なんかはもう、おも、あんまり思いをかけないようなことでした。
 
 これはまあ、その大黒様のおかげの一番( )ですけども、もうとにかく、まあおかげを受けることだけは間違いないごたるですね。もうずっーとこう大黒様ばね、お祭りするごとなってから、お金のお供えばせんごつかないち、これはお百姓さんですよ。もういくらまっても( )。いるようになった時は人がもってくる。もうそのちょっとあつかっとってくれち。でただ、はあ今日はこればお供えしとこうち思うてから、神様にお供えする。またそれはとりくりゃ渡さにゃんとばってんね。もうとにかくあの、間違いなしに、その大黒様のいうなら、功徳というか、ね、霊験あらたかな。

 私はね、そのなぜそういうことになってくるかというと、大黒様ば拝む時に親先生ば心の中にありあと思い浮かべるわけです。そして親先生大黒様で拝みよるです。ね、昨日お話しましたように、私がこう、神様は大黒天の徳と、そういう徳を受けるようなおかげを頂けという、お知らせを頂いた、んーこと、以来、大黒様のお知らせを頂くと、親先生と言うふうにみんながいうんです。ね、ですから私はそういう一つのこりゃまあ、神様の演出でしょうけれどもです、私が御結界に座っとった分じゃあまり拝みませんが、手叩いておごだっちゃです、ほんなことは拝みよらん。( )ところがうちに大黒様ばお供えしよる。ね、さあ冷たい水だ、先生はお茶がお好きじゃからというて、そんなら、そこにです、親先生と、か、通うものがある。そこに、いよいよ親先生が神様のように、扱われることになるのです。そして金光様のご信心はやはり、生神様を、ね、拝めれる、お取次の先生が拝めれる、またみなさんは拝め、拝まれる、いわば取次ぎ者にならなければいけない。ためには、その、大黒様というような、演出をしてからでもです、神様は、いよいよ私を拝ませる働きというものがあっておるという風に思いますと、これもあながちおかしい、おかしなこの頃合楽はちょっと間違うとる、また今度は大黒様ばえらい今度は拝みだしたばいち言う風になるかもしれませんけれども、訳をただすとそういうことになるわけなんです。ね。

 ご理解、何節でしたか。えー18節はここに生神様のこれじゃったの。こういうご理解がありましょうが。えー、「天地日月の心になること肝要なり。」あれはご理解何節じゃったかな。は?7節でしたか、あんたがたくわしかなあ。もう25年間ね、私はこれを読みよるばってんから、まだ暗記しきらんけん眼鏡かけて読みよるですよ。ああそうそう、末永先生んところのお父さんなんかは、これば全部そらで、あの書きなさるそうですよ。もう一字一句違わんごと。ほーらもう、それけんちいうておかげ頂くわけでもなかごたるですね。いやほんなこつですが。私どんはいつも忘れとるけんで、もういつもこれだは手放されん、どこに行くでん。
 天地金乃神は昔からある神ぞ、途中からできた神でなし。天地は流行ることなし、流行ることなければ終わりもなし。天地日月の心になること肝要なり。信心をせんでもおかげはやってある。」だからその、一番肝要なことは、天地日月の心になることです。どげんですか、天地日月の心になろうと、思うたことがありますか。いや、天地日月の心とはどういう心だろうと思うてみたことがあますか。か、肝要だと言う、これはもうどうでもここだけは頂かないかん、だからここだけは私が空暗記しとる。ね。これはもういつも思うておることだから。天地日月の心になること肝要なり。道理で天地は流行ることはなし、という、この流行ることもなければ終わりもなしと、いうふうにおっしゃっておられますけれども、最近あの、地球の滅法が言われますね。人類の滅法。いううならば、地球が破滅すると、人類が破滅するといったような、その予言が、あーしておる人があって、えーあれもなんか難しい名前じゃったですもんね、何とかちいいよったなありゃ。ノストラダムス。ああ、ノストラダムス、あの人がいうてることが、必ず当たっているそうですね、やっぱり。私はあの話を、ちょうどある研修会の時に、あの、聞かせて頂いて、なんか、胸がドキンとしたですね、その話を聞いてから。それから私は、あのドキンとした時には、まあすぐやっぱ、御神前に出てからですね、この安心を取り戻さんといかんですよ。御神前に出てからそのことを、今、あのこういうことを言いよりますが、ほんなこと25年後に地球はなくなるようなことになるじゃろうかと、いうようなことをお願いさせてもらいよったら、神様からね、氏子が、自分で自分の首をくくるようなことをするからと。だからやっぱ、そういうことにならんとおっしゃるわけです。そこにです、なら私ともがね、自分で自分の首をくくるような生き方ということから、あの、脱皮しなければいけない。ね、自分で自分の首をくくる。
 例えば金光教は一つも発展せんという、言われておることは、私は金光教教団人全体だ、金光教の首をくくるようなことをしておるようなことはないだろうかと、大反省をしなければいけないと思うですね。この頃から少のうなるです、段々。ね、またはほんなら、これは信心のないものの、世界にもっていくと、いよいよ人間が人間の知恵で、いわゆる自分で自分の首をくくるような結果に、ね、人間の知恵、力でです、それこそ月の世界にでも行けるほどしのことになってきた、から人間が幸福になるかというと、ますますいうならば、( )深刻になってきた。しかもしかも、地球上の人類のすべてがね。それこそ肌に、泡粒を感じるような感じで。ね、それを言うと、まあいろいろに言う人があります。それはそれはもう、(   )なるごつしやなか。もうなる時はなるとち。ね、いうような投げやりのことを言う人もある。

 けれどもね、このごろからあの、大阪の、みあけ先生が、今、世界総助けの旅という旅行をなさっておられます。ね、もうあれしこ金があるならば、それこそ歩くごたろうと思うですね、私は。私でさえそげん思うから。けどもやっぱ金光様の道はどこまでも、畳半畳のあそこに座りこんでからの、祈りであり願いでなからなければならんから、私の手になり足になりして、働いてくださる方達に、頼むより他にない。それが、合楽示現活動に参画するということになるわけです。ね、ここにおっしゃっておられますようにね、地球は流行る事もなし、終わりもなしとおっしゃってないですもん。教祖様は。ね、天地はそう。けれども地球は、もう極まりないものとはおっしゃってはいないわけです。人間の住む世界は。いやそれよりかむしろです、ね、開けた開けたというけれども、開けたのではなし、めげるのだという風におっしゃっておられます。もういうならばです、もうめげてきておる今日だという感じがいたします。
 けれどこれをまあ少し、安易に考えてです、ね、こういう大変な、人間が月の世界にでも行けるほどしの科学の進歩なら科学の進歩を見るほどしだから、公害とこう言われるけれどもです、また、人口の問題といいです、ね。自然の問題といいです、ね、それこそまた公害なら公害、いやこれほど、深刻になってきたけども、それを、今度は防ぐとか無くしていく、いうならば発明までもこれからなされるだろうというようなね、これ以上は進むまいというような、安易な風に、えー考えもできます。それでもそれは、例えばそれでいいということではないですけれども、ね、これは私共の魂の問題。本気で私たちが自分で自分の首をくくるのてはなくて、昨日のお話の中に申しましたように、末永先生が、合楽で修行をつみ開かれた、ね、平和な心である。広がりに広がり、ね、しかもそれを、ね、大きく示していくというような生き方。もう広がりに広がっていく生き方。そういう生き方の根本のところを学ばしてもろうて、ね、いうなら、日勝りのおかげを頂いていくということにならなけばいけない。だから、そういう自分で自分の首をくくるようなことではなくて、広がりに広がっていく道をたどっていく人こそ、いわば生き残る人々にもなれるのだという感じがいたします。ね、(  )ね、なら(    )まで人類が、いうならば死滅する話いたしましてもです、なら魂の世界を破壊することはできんのです。魂のことを、私は否定したら信心がなくなると思うです。ね、教祖金光大神の、いわば(  )のお働きも否定することになります。ね、これは私共がです、結局は本気で魂を清めることの精進に焦点を置くということがです、いうならば、和賀心をいよいよ追求して、自分の心の中に、昨日の話、叩いても、叩いても割れも壊れもしないというような、和の心を頂いて、いよいよ信心によるところの喜びの心を、心の中に頂いて、ね。この、いわば様々な、何々時代、何々時代という時代をです、和賀心時代に塗り替えていかなければならない責任をです、私は金光教の信者、いわゆる信奉者は、ね、そういう大きな神様の願いがかけられておる、そういう責任を私は感じて、ね、ここに、一つ示現活動に、ね、合楽ということは、神も助かり氏子も立ち行く、神と人とが一つになって喜びあうという表現なんです。合楽示現活動に本気で参画させてもろうて、いよいよ光臨の世界、いうなら光の輪をいよいよ広がりに広がらせていく運動というか、ね、ためには私は、ちょっとした金光教の中にもです、一つの革命をみらなければいけないと思う。

 ね、昨日もそのことにちょっと触れましたけれども、手続きというような、ことで、しばられておる人達がどのくらいおるか分からない。ね。今日ここに、出席のおかげを頂きたいと、お供えも送った、お初穂の用意もでけた、旅費の切符もこうたというのに、ね、あるところから、中傷がはいって、いけなくなったという悲しい手紙を受けました。ね、それは、いうならば、その縄貼りのようなもの。手続きのようなものがです、私は邪魔をしておると思うのです。ほんっとに全教一家とおおせられる、ね、三代様が全教一新してとおおせられる、ね、教祖の時代にかえれということは、途中から帰るのではない、ほんっとに教祖の時代にたちかえった時に、初めて教祖にかえるということが言えるんだと私は思う。ね。そしてです、いうならば、これは、金光教団人だけではない、ね、あらゆる、いうなら人が助かるというほどしの宗教が、あるならばです、そういう生きた宗教のものが手に手を取ってです、いわゆる全教一家に、ならなければならないときだと。
 みあけ先生あたりがそこのところを、おっしゃっておられるような気がするんです。あらゆる宗教人との、交わりをなさって、手をつないでいこうと言われる。ところが中々先生のいうことをみんながきかんらしいですね。だから私は思うのです。だから、その教えその教え、キリスト教ならキリスト教でもいい、仏教は仏教でいい。ね、けれどもね、その中にです、いわゆる天地書附、ね、和賀心です、ね、その和賀心と言う事は、これは金光教の独壇場のものです。ただこれはね、和らぎ賀ぶ心といったような、あのー表現じゃとても、表現できるようなものじゃないです。金光教教祖がおっしゃる和賀心というのは。いわゆる、その和賀心にはね、一切のいうならば、めぐりというかね、難儀のもとというものがたたれるほどしの内容をもっておるということです。ね、仏教の因縁といい、いうならば、キリスト教で罪をいう、だからどのような罪が例えばあろうがです、もうここに一つの難儀というものが、形成される。それを一つのたまねぎならたまねぎに、こうやって例えるならばです、たまねぎそのものの難儀のためには、たくさんの小根があるように、その難儀のもとには、こういうたくさんな、ものがある、やっぱり。それを、ある宗教は、この根の一本一本のことを言うておるわけなんです。ね。
 
 けれども教祖のおっしゃる天地書附に頂くところの、和賀心というのはです、それはどういう難儀があるか分からない、元をつくっておるか分からないけれどもです、ね、氏子が詫びるという素直な心になれば許してやりたいのが親心であると同時にです、その、和賀心の前にはです、それこそ、霜に煮え湯をかけるように解消していくという、素晴らしい教えがあの天地書附です。だからこれは、あらゆる宗教の方にもです、よくわけを話すならば、宗教人であるかぎり、本当に説明するならばです、ね、私は分かってもらえると思うです。ね、分からんなら分からんでもう、それこそふみちらかしてもいいから、その和賀心時代をつくる私は運動、働きというものがです、もうとてもやはり、みなさんがね、若い世代にです、そういう迫力をもっておる時にです、ね、もう金光教はいうならば、革命というたら激しいと言われますけれども、ある意味じゃ革命です。をしてです、いうならば、そういう、ね、縄張り的なものを、ね、または手続きというその内容にある汚い心、ね、そういうものを一掃してです、おかげを頂いて行く、私がこの頃頂いていることは、流れきたって流れさるということを頂いております。流れ来たったものを受け止めて、それはもう流れさらせるんだと。私がごとたくさんな弟子がおるとするならばです、その弟子はここで受けるものを受けたら、もうどこへ流れていってもいいんだということです。 けれどもその、うけとめようとしておる人はです、やはり師匠のことを時には思い出しもしょう、だから、お育てを頂いた教会のことを思いもしよう、そこに親子の、いうならば、血縁以上のものが、生じるのですから、下のほうから逆流しながらね、やはり親を慕うていくというような、いうならば私どもならばです、三井教会あって、合楽教会があるのです。これはもう絶対のものですから。ね、これはもう子々孫々の私のあとを継ぐものがです、ね、三井教会あって、いうならば合楽があるのだ。それで私がどれほどいうなら、三井教会に尽くすことかできてもです、ね、それはいうならば、利払いにも当たらないくらいです。ね、元金をかえせるとは思われません。ね、そういう大変なものですから、ね、尊びもしなければいけない、大事にしなければなりませんけれどもです、ね、いうなら三井教会と合楽教会ということがです、いうなら、手続きじゃからあんたはどこに行っちゃならん、ここにいっちゃならんといったような雰囲気というようなものが、あるとするならです、これは一掃していかなければいけません。全教一家ということは、私はそういうことだと思うんです。ね、そして本気で一心する。それこそ、触れば温かみを感じるような、つつけば血が飛び出るような、生き生きとした、生々しい生きた働きのあるお広前をです、みなさんにも、みなさんは、そういうおかげの(  )でしょうけれども、ね、これは私が(  )ですけれども、ね、それをいよいよ本当なものに、ね、そして自分のお広前と、自分のうちの信者ということにとどめずにです、この世界にそういう光の輪を広げていこうというような、運動をです、やはり手に手をとった一教、全教一家的なです、大きな働きになってこなければ、ならないということを思います。通感します。もうこのように私は、そのことを寝ても覚めても思います。ね、そこでです、いうなら天地日月の心になること肝要とおおせられるのだから、なら天地日月の心とはどういう心か、肝要とおおせられるが、果たしてそんな肝要というとこに取り組んでおるか。ね、なら天地日月の心になること肝要であるというような、ことをです、まい少しは聞いて頂きましたが時間になりました。ね、ですから、んー一つ、肝要とみなさんが思(  )少ないです。思うておるならばです、ね、どういうところが肝要なのか、天の心とは地の心とは、日月の心とはと、いよいよ追求を惜しんではならないと思うのでございます。ご清聴ありがとうございました。


池尻てるか